どうしても書かずにはいられず、、、
昨今話題の「いじめ問題」だが、どうしても理解できない。
というのも、次のような疑問が湧いてくるからだ。
「そもそも、何をもって"いじめ"と表現しているのか?」
それをはっきりとさせない限り、何をなくすべきと言っているのか分からない。
いじめとは、一定の行動に定義できるものなのであろうか?
人に苦痛を与えることがいじめなのか?
そうなのであれば、集団生活を学ぶ上でいじめをなくすことは不可能である。個人が誰一人として互いに苦痛を与え合わない集団は、個人が互いに関与し合わない集団である。個人が接する限り、互いに大なり小なり苦痛は必ず与え合う。
では、大きな苦痛を与えることがいじめなのか?
これは、苦痛の大きさには苦痛を受ける個人によって差があり、また苦痛の種類も様々あるため、一定の基準を設けることは不可能だ。
そうならば、ある現象が起こる程度の苦痛なのか?
すなわち、苦痛により不登校や自殺等の行動を取らせることが"いじめ"なのか?
そうであれば、誰にも理解されず、周囲からのいやがらせに我慢している子供は"いじめ"られていないのか?
この考えには誰も賛同しないであろう。
文部科学省では、"いじめ"の定義を「子どもが一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」と定義しており、「個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行う」としている。(文部科学省:いじめの定義)
このように考えると、"いじめ"とは周囲が行う一定の行動ではなく、受け手によって異なるものを指すことがわかる。
では、この受け手によって異なる"いじめ"をなくすことはできるのか?
これには、外的な方法と内的な方法があると考える。
外的なものとは、子供一人一人の苦痛への許容範囲を監督者が明確に把握し、子供同士がふれあういついかなる時にも、そこに干渉し、子供達の行為を制限する方法である。
しかしながら、それには
・子供一人一人の苦痛への許容範囲は、時々刻々と変わり、監督者が明確に把握することは不可能
・子供同士のふれあいを常に監督し、干渉する行為は教育として正しいか?
・そもそもこれを行うには人手が足りない(定年退職者の協力が必要?)
という問題があり、難しい。
多くの人は、この外的な方法がきちんと行われていないと批判しているのかもしれないが、子供同士のふれあいはいたる所で起こっており、限られた人手だけでは、その全てを監督し、干渉することだけでも不可能であり、その上、子供一人一人の苦痛への許容範囲を把握しろというのは、誰にもできないであろうことは明白に感じる。
内的なものとは、子供達に、それぞれが許容範囲を超える苦痛を与えない様、徹底した教育を行うことだが、そもそも
・そのような教育は現実的に実現可能か?
・大人でも判断できない、他人の苦痛への許容範囲を子供達が完全に把握できるか?
という2点からも、実現は難しい。
以上の考察から、"いじめ"という行動をなくすことは、不可能である。(少なくとも私にはそう感じる。)
私は、「"いじめ"をなくす」のではなく、「"いじめ"による被害をなくす」が正しいのではないかと考える。
ここでいう被害とは、個人の人権に関する被害のことを指している。
多くの人が、"いじめ"の問題によって感情的になって注目してしまうのは、「"いじめ"があった」という事実ではなく、「"いじめ"による被害が発生してしまった」という事実であろう。
多くの人は、"いじめ"によって受けた苦痛や与えられた暴力、命を落としてしまった事実に酷く胸を打たれたのだと思う。
そのため、その原因である"いじめ"をなくすべきだと考えている様に感じる。
しかし、先ほどの考察にもあった様に、"いじめ"をなくすことは不可能であり、本当になくすべきは"いじめ"による被害なのである。
それにも関わらず、なぜ多くの人が「"いじめ"をなくすべきだ」と主張するのか?
それには、マスコミの影響が小さくない様に私には感じる。
"いじめ"問題は、視聴者の食いつきが良い。なぜなら、多くの人が身近であるか、一度は経験する話題であり、感情移入しやすいからだ。感情に訴えるような話題は多くの人が興味を持ち、そのため反響も大きい。よって、マスコミにとっては、都合の良い話題に違いない。
この注目度を保つために、「"いじめ"をなくす」という解決するはずのない課題を、いつまでも教育現場に提示し続けているのではないかと思えて仕方がない。そしてそれを見た多くの人が影響を受けて、"いじめ"はなくさなければいけないと主張している様に感じる。
では、"いじめ"による被害をなくすためには、どうするべきなのか?
私は、これこそ、外的な方法と内的な方法により、予防できると考える。
外的な方法とは、教育者が子供達同士のふれあいを監督し、必要があればそこに干渉する方法だ。先ほどの"いじめ"をなくす方法とは異なり、こちらは被害をなくすことが目的であるため、身体や生命、財産に被害が及ぶ際には大なり小なり周囲にも分かる形で影響が出てくるはずである。それを発見することで、"いじめ"による身体や生命、財産への被害を防ぐことができると考える。
しかし、現状のままでは、これらの被害が出てきている今までと変わらないことになってしまうため、この方法を実践するためには、学校や地域、家庭等によって、今よりも子供達同士の自由なふれあいは制限される必要があると考える。それに加えて、監督者(教育関係者である必要は必ずしもないと考えるが)の人員は確保する必要があると考える。
そして、内的な方法とは、子供達が精神的に苦痛に強くなれる様な教育を徹底して行っていくことである。私は教育の専門家ではないため、どのような教育方法があるのかは分からないが、少なくとも私は、部活動等を通して、強い精神を作ることができたと信じている。
以上の2つの方法は、現状の制度や環境では実現できないであろう。しかしながら、社会が本気で"いじめ"の被害をなくすためには、現状からのある程度の大きな変化は必要であると考える。
しかしながら、ここでもまた、マスコミが足を引っ張っているように感じてならない。
大津市のいじめ問題発覚以降、マスコミは多くの教育現場における、"いじめがあった"という事実を責め立てている。しかしながら、本当に責めるべきは、"いじめによる被害"を出してしまったことであり、そうではなく、"いじめがあった"という事実を責め続けている限り、この問題はいつまでも収束しない。そればかりか、教育現場がマスコミの対応にばかりおわれてしまい、いつまでも"いじめによる被害"を減らすことに取りかかれないのではないか?
一学生の考えであり、正しくないと感じる人もいるかもしれないが、私は以上のように考えているし、そのためマスコミが収束しない(させる気のない)"いじめ"問題で騒いでいることにうんざりしている。
いじめ問題は難しく、センシティブであるため、なかなか自分の考えを発言しにくい問題ではあったが、この状況がいつまでも続くことを傍観できず、自分の考えを記した。
難しいからといってその問題について考えず、自分の意見を持たないことは、そのことを知らないことと同じか、もっと悪いと考える。
難しい話題であるからこそ、一人一人が考えるべきであると思う。
2012年10月15日月曜日
2012年10月9日火曜日
スティーブ・ジョブズ 神の交渉力
スティーブ・ジョブズ 神の交渉力
【著】竹内一正

タイトルを読んで、交渉術に関する内容を想像していたが、交渉術のノウハウよりも、交渉に関連したスティーブ・ジョブズに関する逸話が数多く紹介された内容となっている。
読み終えて感じたことは、ジョブズの性格は極端に自己中心的で強引に周囲を振り回し、人間関係において義理や人情を重要とは考えない性格であるということである。しかしながら、その性格は世界に新しいものを生み出し、広めていく上で必要なものである様に感じた。新しいものを生み出すためには、普通考えもしないようなことにこだわり、時間と労力を裂かなければならない。普通の人間であれば、周囲の反対や常識にとらわれてしまい、不確実な自分の信じることに莫大な時間とお金と労力をかけることに躊躇してしまうだろう。しかしながら、自己中心的で強引な性格であれば、そこでブレーキはかからないのかもしれない。
この本の中で、特にこれらの性格が感じられたのは、ジョブズがピクサーを買収したのち、ディズニーと契約してCG映画「トイストーリー」をヒットさせた後のこととして紹介されている出来事である。
「トイストーリー」は、当時資金不足で喘いでいたピクサーに、ディズニーがその製作やプロモーションにかかる莫大な費用を負担したことで、大ヒットを生むことができた。その一方で、この映画のキャラクター商品によって得られる収益は全て、ディズニーに入るという契約を、ジョブズはディズニーと結んでいた。
「トイストーリー」の大ヒット後、ジョブズは期限がまだ来ていないこの契約の変更を迫ったのだ。ジョブズはこの交渉に勝利し、その結果、ピクサーは「トイストーリー」のキャラクター商品によって得られる収益の一部を得ることができたのである。
立場が優位になったとたん、資金を援助してもらった相手に牙をむく、強引で身勝手な性格が、結果として非常識ではあるが収益をもたらしたのである。
一方で、このような振る舞いは、ジョブズの並外れた目的達成への熱意によるものなのかもしれない。
若き日のジョブズは、できたばかりのベンチャー企業アップルに資金を提供してくれるところを求めて、つてをたどってはしつこく頼み込んでいた。何度断られてもしつこく電話をかけ、強引にでも資金の提供を取り付けたのである。このような、恥を恐れず、愚直にでも目的の達成を目指す熱意が、ジョブズの人格を形成していたのかもしれない。
2005年、ジョブズは卒業を控えたスタンフォード大学の学生に、次のような言葉を贈っている。
"I have looked in the mirror every morning and asked myself: "If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?" ...... Remembering that I'll be dead soon is the most important tool I've ever encountered to help me make the big choices in life. Because almost everything — all external expectations, all pride, all fear of embarrassment or failure - these things just fall away in the face of death, leaving only what is truly important. Remembering that you are going to die is the best way I know to avoid the trap of thinking you have something to lose."
(私は毎朝鏡を見て、私自身にこう問いかけています。「もし今日死ぬとしたら、私は今日まさにしようとしていることを、したいと思うだろうか。」.....「すぐに死ぬ」と覚悟することは、人生における重大な決断を下すときに大きな自信となります。なぜなら、ほぼ全てのもの―周囲からの期待やプライド、恥や失敗への恐怖など―は、死に直面すると消え去り、本当に大切なものだけが残るからです。死を覚悟して生きていれば、何かを失ってしまうかもしれないと恐れることがなくなるのです。)
この言葉が、熱意と相まって、ジョブズに普通は避けるような行いを実行させていた様に私には感じた。
自分が目指す生き方にもよるのであろうが、この常人とは違う「天才」や「神」と呼ばれ、栄光の頂点から転落し、また復活する波乱の人生を生きた人物の生き様には、参考にすべきところが多分にあると感じた。
【著】竹内一正
タイトルを読んで、交渉術に関する内容を想像していたが、交渉術のノウハウよりも、交渉に関連したスティーブ・ジョブズに関する逸話が数多く紹介された内容となっている。
読み終えて感じたことは、ジョブズの性格は極端に自己中心的で強引に周囲を振り回し、人間関係において義理や人情を重要とは考えない性格であるということである。しかしながら、その性格は世界に新しいものを生み出し、広めていく上で必要なものである様に感じた。新しいものを生み出すためには、普通考えもしないようなことにこだわり、時間と労力を裂かなければならない。普通の人間であれば、周囲の反対や常識にとらわれてしまい、不確実な自分の信じることに莫大な時間とお金と労力をかけることに躊躇してしまうだろう。しかしながら、自己中心的で強引な性格であれば、そこでブレーキはかからないのかもしれない。
この本の中で、特にこれらの性格が感じられたのは、ジョブズがピクサーを買収したのち、ディズニーと契約してCG映画「トイストーリー」をヒットさせた後のこととして紹介されている出来事である。
「トイストーリー」は、当時資金不足で喘いでいたピクサーに、ディズニーがその製作やプロモーションにかかる莫大な費用を負担したことで、大ヒットを生むことができた。その一方で、この映画のキャラクター商品によって得られる収益は全て、ディズニーに入るという契約を、ジョブズはディズニーと結んでいた。
「トイストーリー」の大ヒット後、ジョブズは期限がまだ来ていないこの契約の変更を迫ったのだ。ジョブズはこの交渉に勝利し、その結果、ピクサーは「トイストーリー」のキャラクター商品によって得られる収益の一部を得ることができたのである。
立場が優位になったとたん、資金を援助してもらった相手に牙をむく、強引で身勝手な性格が、結果として非常識ではあるが収益をもたらしたのである。
一方で、このような振る舞いは、ジョブズの並外れた目的達成への熱意によるものなのかもしれない。
若き日のジョブズは、できたばかりのベンチャー企業アップルに資金を提供してくれるところを求めて、つてをたどってはしつこく頼み込んでいた。何度断られてもしつこく電話をかけ、強引にでも資金の提供を取り付けたのである。このような、恥を恐れず、愚直にでも目的の達成を目指す熱意が、ジョブズの人格を形成していたのかもしれない。
2005年、ジョブズは卒業を控えたスタンフォード大学の学生に、次のような言葉を贈っている。
"I have looked in the mirror every morning and asked myself: "If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?" ...... Remembering that I'll be dead soon is the most important tool I've ever encountered to help me make the big choices in life. Because almost everything — all external expectations, all pride, all fear of embarrassment or failure - these things just fall away in the face of death, leaving only what is truly important. Remembering that you are going to die is the best way I know to avoid the trap of thinking you have something to lose."
(私は毎朝鏡を見て、私自身にこう問いかけています。「もし今日死ぬとしたら、私は今日まさにしようとしていることを、したいと思うだろうか。」.....「すぐに死ぬ」と覚悟することは、人生における重大な決断を下すときに大きな自信となります。なぜなら、ほぼ全てのもの―周囲からの期待やプライド、恥や失敗への恐怖など―は、死に直面すると消え去り、本当に大切なものだけが残るからです。死を覚悟して生きていれば、何かを失ってしまうかもしれないと恐れることがなくなるのです。)
この言葉が、熱意と相まって、ジョブズに普通は避けるような行いを実行させていた様に私には感じた。
自分が目指す生き方にもよるのであろうが、この常人とは違う「天才」や「神」と呼ばれ、栄光の頂点から転落し、また復活する波乱の人生を生きた人物の生き様には、参考にすべきところが多分にあると感じた。
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