第1章「正しいことをする」
全体の導入といった内容で、実社会で起こる道徳的に判断が難しい事例をいくつか挙げたうえで、それらに対してどのような考察ができるのか、どのようなアプローチの方法があるのかを簡単に上げている。これらは実際にこれからの章で議論される事柄である。
第2章「最大幸福原理 ー功利主義」
一つ目の考え方である、「功利主義」について紹介し、議論している。「功利主義」の原理とは、社会全体の利益、すなわち幸福や快楽の総量が最大となり、社会全体のコスト、すなわち不幸や苦痛の総量が最小となるような方法が最も正しいとする考え方である。ジェレミー・ベンサムはこの考え方の原理を確立した人物であり、ベンサムによると、道徳の思考の原原理は社会の効用を最大にすることであり、効用とは快楽や幸福を生み、苦痛や苦難を防ぐ全てのものを表している。例えば、ベンサムのアイディアとして「貧しいもののために自己資金で運営される救貧院を設ける」というものがある。これは、路上の物乞いを貧困院に閉じ込め働かせ、物乞い達が貧困院で働いて得た金銭で自分たちの食費や医療費を払う、というものだ。この方法でベンサムは、一般の人々が物乞いに出くわして社会全体の効用が減少することを防ぎ、さらに物乞い達の中に数人はいるであろう、貧困院で働く方が幸せであるという者達によって社会全体の効用は増加すると主張する。そしてこの効用の増加分が、貧困院で働かされる者達が受ける苦痛などによる効用の減少分に勝るため、道徳的に正しいと主張している。
しかし、このようなベンサムの考え方には以下に示すような反論が考えられる。
1.個人の権利を尊重していない
ベンサムの考えるように満足の総和だけを考えてしまうと、個人を踏みつけにしてしまう場合が出てくる。例えば、古代ローマではコロセウムでキリスト教徒をライオンに投げ与え、庶民の娯楽としていた。この行為の正当性を功利主義的に考察した場合、投げ与えられたキリスト教徒は堪え難い苦しみを味わうはずだが、大多数のローマ市民がこの見せ物から十分な快楽を得るとしたら、この行為を否定することはできない。このように、効用を第一に考えてしまった場合、常に道徳的に正しい選択が可能であるとは考えにくい。
2.あらゆる物事に関して共通の価値をもたせることは不可能
功利主義に従う場合、あらゆる種類の幸福を共通の単位(通貨)で計算し効用を算出する必要があるが、それは事実上常に可能か?社会心理学者のエドワード・ソーンダイクは一見バラバラな欲求や嫌悪の対称を通貨で表そうとし、アンケートを行った。その結果、回答者の多くが金額では表せないほど嫌だと言うものが出てきてしまい、完全に通貨で表すことはできなかった。
ジョン・スチュアート・ミルは、この反論に対して全ての快楽は、質の高い快楽と質の低い快楽に区別できると主張した。しかしこの快楽の質とは、効用そのものとは無関係な人間の尊厳や人格という道徳的理念に訴えたものとなっている。
第3章「私は私のものか? ーリバタリアニズム(自由至上主義)」
第2章で上げた功利主義とは異なり、リバタリアニズムとは個人の自由への基本的権利を最優先する考え方である。リバタリアンは、自傷行為を行う者を保護する法律やある種の美徳の概念を強制する法律(同性愛禁止法など)に反対する。互いに望むのであれば殺傷行為をも正当化されうる。さらに、富裕者が貧困者の為に納税する義務にも反対する。なぜなら、それは国が富裕者を所有して労働させていることになるからである。この考え方に従う場合、ある富裕者が稼いだお金は全てその人が所有できることになるが、この際に次のような反論が考えられる。
その富裕者はたまたま彼にある種の才能があり、その才能を賞賛する社会に生まれたために富裕者になっただけであり、それら全てに対してその富裕者自身が貢献した訳ではなく、稼いだお金のうちの一部はそういった社会や才能を与えてくれた何かに所有権があるはずだ。
この反論に対する回答は難しく、才能を発揮した結果得られた利益を受け取るべきはその才能の所有権を持つなにかであり、それはどこにあるのかという問題に置き換えられている。
第4章「雇われ助っ人 ー市場と倫理」
本章では、金銭を払って人にやらせることの倫理について、戦場で戦う行為と子供を産む行為と言う全く違った二つの仕事を元に考察している。初めの戦場で戦う行為については、兵士の集め方について、徴兵制、身代わりを雇ってもいいという条件付きの徴兵制、志願兵制の3つにが考えられるが、自由至上主義、功利主義双方においてもっとも最善であると考えられるのは志願兵制となる。自由至上主義の観点から見ると、徴兵制は強制するため一種の奴隷制と見なされるため1つ目と2つ目は適切ではない。また、功利主義の観点から見ると、志願兵制は望む者のみが兵役に就き、望まない者が入隊されることによる効用の損失もなくなるためである。しかし、最も良く思われる志願兵制であっても、反論の余地をもっている。1つ目の反論は、志願兵制とは入隊することで金銭を得る制度であるが、貧困に喘ぎ選択肢のない者が本心では望んでいないにも関わらず入隊してしまう場合が考えられる点である。2つ目は、兵役をただの仕事ではなく市民の義務と考えた場合にそれを市場で売りに出すことは許されないという点である。例えば陪審員制度を市民の義務としている場合に、その義務を売買することは正しいとは考えにくい。同様に、子供を産む能力を売買する(代理妊娠)ことを考える際に、依頼人と代理母との間に結ばれる契約は真に正統なものであるといえるのであろうか。少なくとも、代理母は契約を結ぶ時点で妊娠後に芽生えるであろう子供への感情を知ることはできないので、この自発的な決断が十分な情報に基づいているとはいいがたい。すなわち、代理母としての契約を結んだ女性は十分な情報を与えられていない不当な条件下で契約を交わしたと言える。また、代理母という契約は、女性である人間(出産という能力、または生まれる子供)を商品として利用することによって貶めている(下等に扱っている)。この様な考えから、志願兵制と代理出産というまったく異なっているように思えるものごとの間には、自由市場で我々が下す選択はどこまで自由であるのかという問題と、市場で評価すべきではないものは存在するのかという問題の2つが存在していることがわかる。
第5章「重要なのは動機 ーイマヌエル・カント」
第4章までで見てきたように、功利主義、自由至上主義にはそれぞれ受け入れがたい状態を容認し得る。(功利主義では少数であれば絶大な苦痛をも容認しうる、自由至上主義では互いに望むのであればいかなる行為でも容認されうる)イマヌエル・カントは、このような考え方とはまた別の理論を主張している。それは、人間は理性的な存在であり、尊厳と尊敬に値するものだ。カントは人間は自由に行動すべきだと主張するが、カントの言う自由とは自然や社会に影響されない、自分が定めた法則に従って行動することであり、目的を選択する際にその目的そのもののために選択する必要がある。例えば、空腹に耐えきれずパンをほおばってしまったり、大学進学するために数学の問題を解くといった行動は、カントの言う自由な行動ではない。また、その行動は道徳的である必要がある。そしてカントが言う道徳的な行動とは、正しいことを正しい理由のために行うという義務の動機に従う行動である。例えばカントは思いやりから他人を助ける行為を尊敬には値しないとする。それは個人の趣向(他人を助けることで喜びを感じる)のために行った行為であり、義務によるものではない。逆に、助けたいという思いやりは全くないがひとえに義務のために他人を助けようとする行為をカントは尊敬に値するとする。また、カントが言う義務とは、理性によって判断され、その理性とは定言命法に従おうとすることである。ここで定言命法とは、無条件に正しいとされる法則のことである。(例えば嘘の契約をしないなど)
第6章「平等をめぐる議論 ージョン・ロールズ」
ある集団や国家において社会契約が結ばれるとき、どのような契約が最も公正であると言えるのであろうか。人々にはそれぞれ階級や立場があり、持っている情報量も異なるため自分に有利な契約を結びたがる。ジョン・ロールズは真に公正な社会契約とは一時的に自分がなにものかが全くわからない状態なり、交渉力に差がない状態で人々が同意する契約であると主張する。また、ロールズは才能など完全に平等にすることはできない事柄について、格差原理という考えを提示している。これは、ある事柄に対して才能のあるものにはその才能を訓練してのばすように促し、その才能で市場にもたらした報酬はその才能を持たない人々も含む共同体全体のものとする考えである。しかし、この考えには2つの大きな反論が考えられる。
反論1.もし才能を持たない人々を助ける条件でしか自分の才能から利益を得られないのであれば、才能に恵まれた人々は手を抜くかそもそも才能をのばそうとしないかもしれない。
反論2.才能を伸ばすための努力に対して相応の報酬を与えるべきだ。
これらのような反論が考えられるにしろ、ロールズの正義論はアメリカ政治哲学がまだ生み出していない、より平等な社会を実現するための説得力ある主張を提示している。
第7章「アファーマティブ・アクションをめぐる論争」
本章では主に大学におけるアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)に賛成、反対それぞれに対する理論を考察している。まず賛成派の意見としては、不利な立場にいる人々を援助するというものだ。しかしこのために過去の差別や過ちに実際にはまったく関与していない人々が犠牲になることに対する正当性も考察する必要がある。また、大学側から見たときに様々な人種の人々を受け入れることにより多様性を促進できるという点も賛成派の意見として上げられる。しかし、実際にはこのアファーマティブ・アクションの為に過去に差別を受けなかった人種の人々が実際には合格するはずの成績を残しても不合格となる。このような判断の基準は各大学ごとに異なり、それぞれに自身の存在意義に従っている。ある大学は多様性を重視するために積極的にアファーマティブ・アクションを取り入れ、またある大学は学力を何よりも優先する。これは各大学がそれぞれに求める価値が違うためであり、各大学が自分達の好きなように、それぞれが求める価値基準を決定しているためである。
第8章「誰が何に値するか? ーアリストテレス」
本章では、アリストテレスの考えをもとに第7章で取り上げた大学の合否判定のように誰が何に値するのかということを考察している。アリストテレスの考えによると、ある同等の者に値する人々というのは皆同等の人々であるとし、何において同等であるかというと、それは分配されるものとそれに関わる美徳に関わってくる。それは、あるものはそれをもっともうまく使う人に分配するべきだという考えである。この考え方を第7章の大学の例に応用するとき、大学の目的とは何かという問いから始まる。
第9章「たがいに負うものは何か? ー忠誠のジレンマ」
本章では第7章の大学の例のように、過去の過ちの責任を実際には関与していない人々も追うべきかという問いに対して考察している。その際、道徳的責任の種類として3つ上げられている。
1.自然的義務
普遍的で合意を必要とする。例えば同じ人間を死の危険から救う義務。
2.自発的責務
個別的で合意を必要とする。例えば金銭を通した契約など。
3.連帯の責務
個別的で合意を必要としない。これが過去に過ちを犯した種族としての責任である。この責務は位置ある自己を前提としており、それによって結びつけられる責務である。この責務は例えば他人と家族であれば家族を優先して助けるという考えはこの責務からくる。自然的義務であればどちらを優先するかまでは指定されないが、家族という、合意を必要としない自分と家族との生まれながらの関係を認識するということは、自分は家族という位置にいてそれは過去から代々続いているという事実を受け入れることになり、結果過去に先祖がおかした罪の責任は少なからず自分にも関係があるということになる。
第10章「正義と共通善」
本章では、ここまで道徳的に正しいこととは何かについて考察を重ねてきたが、このような道徳的な考察を深めていくと結果的に正義についての考察からは逃れられないということを主張している。例えば、同性婚に関しては結婚の目的を考察する必要があり、これは結婚の制度から得られる名誉や承認だと考えられるが、それら名誉や承認の根底には道徳問題が存在し、それは何かしらの道徳的・宗教的不一致が原因となっている。そして、政治がそのような道徳に関与しようとする場合、それを避けようとする政治以上に希望に満ち、公正な社会の実現における基盤となりうる。
考察:とても論理的、哲学的でボリューム感たっぷりだったが、講義の内容をまとめた本と言うことで、各章ごとに論題がはっきりしていてそれが読み進めるごとにつながっていくのでとても読みやすく感じた。また哲学や倫理と言った内容に全く知識がなくても十分に理解できる内容である。著書の中で論じられていることはほぼ全て誰かしらの主張や一般論の紹介であり、筆者自身の意見や定言は少なかったように思われる。